青森県、夏泊半島、大島。
今から300年前、江戸時代にあたる、享保4年、西暦1719年のこと。
この島の北端に、大間喜兵衛(おおまきへえ)らが弁財天を勧請し、海上安全を祈ったという。
時は経ち、昭和24年、西暦1949年から現在に至るまで、船舶の航行を手助けするべく、陸奥大島灯台(むつおおしまとうだい)は陸奥湾を照らし続けている。
今回は、陸奥湾の安全に従事してきたその両者をこの目で確かめるため、大島最奥を目指し、完全踏破を試みることにした。
時は令和4年、西暦2022年の春のことである。
※この記事は、YouTubeチャンネル「ペルログ」の動画内容を解説したものです。
旅の助走区間となる夏泊崎と大島を結ぶ橋
夏泊半島先端の夏泊崎から大島までは、ご覧のような橋がかかっている。
橋の全長は180m。
幅と前後の段差を考えると、歩行者専用だ。
橋の中央部はやや高くなっていて、その下では磯が途切れ、小さな川のようになっている。
この日の潮回りは大潮。
撮影時刻の13時は干潮にほど近い状態であり、一日の中で、大島が半島と「ほぼ一体化」する貴重な時間帯である。
橋が終わると、そこにはコンクリートの土台があるのみ。
飾り気のない、実にシンプルな構成だ。
そういえば、何かのメディアでこんなことを目にしたことがある。
日本は「注意書きが多い国」だと。
親切心、あるいは自己防衛のためのものなのだろうけど、言われてみると、確かにその類の看板はあちこちで目にする。
私は、それが良いとか悪いとかを言えるほど高尚な人間ではないが、この滑らかな大島の景色に浸っていたら、思わずそんなことを思い出した。
余計な装飾のない、ありのままの自然。
それが、夏泊大島の魅力のひとつだと思う。
大島踏破開始
ブログなどで断片的にしか知らなかったエリアへの突入には、それなりの覚悟と勇気が必要だ。
では、いざ立ち行かん、大島最奥へ。
まだ山には多くの残雪が見られる4月中旬とあって、島の中心部へと私を誘う(いざなう)この階段は、幸い見通しのきく状態のようだ。
ただ、ひとつ不安なのは、予測しているルートの高低差がビル25階建てに相当する高さであるということに尽きる。
運動不足の私にとって、今回の大島踏破はそれがすべてと言っていい。
とここで…、
つまづきかけた。
踏破開始からわずか90秒。
すでに、私の大腿四頭筋(だいたいよんとうきん)はパンパンである。
それでもこうして歩を進める理由は、大島の最奥を意地でも見てやろうという、私の執念が詰まったドキュメンタリーとも言い換えることができるのである。
自然と上り勾配が溢れ返る遊歩道
階段ゾーンを抜けるとすぐ、初めて看板らしい看板に出会った。
どうやら、この遊歩道を辿っていけば、最奥へ行けそうな気にさせてくれる心強き案内だ。
木々に覆われて見づらいが、すでに、相当な高さまで登ってきたようだ。
磯が白っぽいため、海水がエメラルドグリーンに輝いている。
階段ゾーンを抜けた後は木の根っこが階段の役割を果たしており、人工的な階段はないが、あってもおかしくない上り勾配が続いていく。
乳酸の溜まった足と格闘しながら登ること数分、ようやく勾配が緩やかになってきた。
それにしてもこの遊歩道、ところどころに小さな看板があるだけで、他には踏み跡以外、何も見当たらない。
「喧騒(けんそう)を逃れる」とはまさにこのことを言うんだなと、しみじみと感じながら奥へと進んでいく。
この遊歩道には、私の記憶が確かならば、2か所の分岐地点が存在する。
ここがそのひとつめの分岐だ。
完全に勘だが、左の道はまた合流するだろうと予想し、ここは迷わず右へ進む(もちろん、太ももが悲鳴を上げていることもあるが…)。
この後、さきほど分岐した左の道は合流することなく行方不明となり、数分歩くと新たな分岐が現れた。
本線はおそらく右で間違いないだろうが、一応、今回は左の道の先がどうなっているのか確認してみたところ、やはり数秒の後に行き止まりを目視することができた。
とどまることのないナチュラルな風景を進んでいくこと数分、ここで、あるものが目に入ってきた…!
灯台目撃
見えたのは、太陽に燦然と照らされた真っ白な灯台、つまりあれが、大島最奥にある「陸奥大島灯台」だ。
ここからではその立地の詳細はつかめないが、ここからだと灯台がかなり低い位置に見えることから、おそらくこの辺りが大島の最高地点付近なのだろうか。
それを裏付けるように、遊歩道の左側を見下ろすと、かなりの角度の傾斜地が広がっていた。
まだ葉をつけていない木々がなかったら、Bダッシュで相当加速できそうだ。
ようやく、道が下り始めた。
おそらく、行程の半分を過ぎた頃と思われる。
そして右手に、サポートとなるロープと木製の階段を発見。
今のところすれ違う人は全くいないものの、それなりに利用する人がいるようだ。
確かな人跡を感じたのもつかの間、30秒後にはご覧のような藪ゾーンに突入する。
島の最高地点を過ぎて下りに入っていたという物理的な余裕と、灯台がそう遠くない位置にあるのを確認できていたという心理的な余裕のおかげで、多少の藪に怖気(おじけ)づくことなく、どんどんと歩を進めていく。
しかし、季節を間違うと散々な目に遭うこと必須のエリアであることは間違いない。
ここまでくると、遊歩道というよりはただの「獣道」になっているが、幸いにも見通しが良いため迷わずに済みそうだ。
灯台ふもと到着
いよいよ灯台のふもとと呼べる地点まできた。
灯台は、まさに「馬の背」のような崖の上にひっそりと佇(たたず)んでいた。
黄金色のすすきに覆われたその周辺を見渡してみると…。
南西(進行方向左)側は険しい岩肌が顔をのぞかせる急斜面、南東側は、白い玉石が敷き詰められたエメラルドグリーンの海岸。
左右どちらを見ても、後ろを振り返っても誰一人いない、まさに「プライベートビーチ」。
ここでしばらくこの絶景に浸っていたいのは山々だが、今日の目的はこの先にある。
改めて気を引き締め、いよいよ、最奥へ足を踏み入れる。
ついに最奥へ
大島灯台の南斜面は、すすきと松に覆われたまさに要塞の入り口の様相を呈していた。
ただ、季節的に松以外はまだ緑の鎧をまとっていないこともあり、「やや急斜面を登らなければならない」という地形的な点を除けば、このエリアの難易度はそれほど高くない。
大島最奥の「門番」のような松の下をくぐり抜け、かすかな灯台の気配を感じながら、わずかな踏み跡を頼りに歩を上へ上へと進めていく。
そこには人工的なものなど微塵もなく、弁財天を勧請した大間喜兵衛も、おそらく同じ景色を見ていたはずだ。
ついに到達。
これが、大島最奥の陸奥大島灯台(むつおおしまとうだい)だ。
ソーラーパネルが全面的に押し出されたその外観は、背の低いずんぐりとした外観が特徴的。
管理用出入り口の上部には銘板があり、「陸奥大島灯台 初点 昭和24年5月」と明確に読み取ることができる。
陸奥大島灯台の概要
所在地 | 青森県東津軽郡平内町(大島) |
点灯年月日 | 1949年5月9日 |
光り方 | 単閃白光 毎7秒に1閃光 |
光の届く距離 | 7.5海里(約14km) |
高さ | 9.7m |
2022年から遡ること73年前、西暦1949年と言えば、日本が「大日本帝国」から「日本国」へ変わったわずか2年後のことである。
無論、構造物自体は人の手によってアップデートを繰り返してきたのだろうけど、今の日本人の大半が成人する以前からこの灯台は仕事を続けてきたと考えれば、ただただ頭の下がる思いである。
背後を振り返ると、そこにはさらに歴史を遡る建造物が立っていた。
大島最奥の弁天宮は、枯れた植物の色合いも相まって、まさに「最果て」にあるという印象を強く受けた。
ただ、鳥居と社に近づいてみると、やや意外な様子であることに気付いた。
というのも、いくら大島が陸奥湾という湾に囲まれているとはいえ、その面積は琵琶湖の3倍以上となる1668㎢、潮風や雪は容赦なく島先端部を襲っているはずであり、ここが木造の建築物に優しくない環境であるということが容易に想像できるのだが。
神額と呼ばれる中央の額にはハッキリと「弁天宮」の掘りこみ。
笠木(かさぎ)と呼ばれる一番上の屋根のような部分と、その下の島木(しまぎ)、台輪(だいわ)、貫(ぬき)は丁寧に装飾が施され、痛みらしい痛みが見られない。
定期的に手入れがなされているのだろう、弁天様が祀(まつ)られている社(やしろ)も同様に、これといった損傷などは見られず、実に綺麗な姿を保っていた。
西側から見た社。
東風の風力が強いのか、背景に植物があまりない。
今度は反対に東側から社を見てみる。
こちらの背景には、多少は風を和らげてくれそうな植物が見える。
この日は雲ひとつない晴天中の晴天。
水平線の向こうには、左手に津軽半島、右手に下北半島、そして、この画像ではわかりづらいが、真ん中の空いたスペースには北海道をも見渡すことができた。
ついに全貌を明らかにすることができた。
70年以上前に作られた、陸奥大島灯台。
300年以上前に建てられた、弁天宮。
年代は異なれど、その思いはただひとつ。
夏泊大島の最奥は、この地に住む人々の純粋な願いに、満ちあふれていた。
まとめ
夏泊大島完全踏破の記録をまとめます。
- 島内には遊歩道があるが、序盤の階段以外は極めて自然のまま
- 中間地点となる大島最高地点付近から灯台を望める
- 遊歩道の後半はほぼ獣道に等しく、季節を間違うと藪漕ぎが必要
- 灯台、弁天宮の周囲は360度もれなく絶景
- 弁天宮、灯台ともに管理が徹底されている模様